4月23日、今年度に入って初めての山陰研究サロンを開催し、英米文学がご専門の長岡真吾先生に話題を提供していただきました。

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話題提供者の長岡真吾先生

日本では小泉八雲の名で知られるラフカディオ・ハーンは、1850年にレフカダ島(現在はギリシア)に生まれますが、少年期を父親の故郷であるアイルランドで過ごした後、19歳の時に単身で米国に渡り、1869年9月2日、ニューヨークに到着します。しかし、ハーンは入国に際して出身地をギリシャ(Greece)と答えたのみならず、しばらくしてアイルランド出身であることを想起させるパトリックというファーストネームも捨て、レフカダ島に由来するミドルネームのラフカディオの方を名乗るようになるなど、アイルランド人であることを隠すかのような行動をしていたことが紹介されました。

 また、ハーンが少年期を過ごしたアイルランドでは、農民が主食にしていたじゃがいもの不作がきっかけとなって、19世紀半ばに大規模な飢饉が起こります。不作になったのはじゃがいもだけで、穀物が実っていたにもかかわらず、多数の死者を出したこの飢饉は、政府による有効な対策がとられないなど、多分に人為的要因によって起こったものでした。この飢饉により、1841年には817万人あったアイルランドの人口は1851年には655万人になるなど、100万人以上が死亡、そのほかは移民として北米などに渡っていったとされます。しかし、彼ら移民たちは、北米で"No Irish Need Apply"(アイリッシュお断り)という言葉に接するなどの差別に晒されることになります。

 長岡先生は、ハーンはこの飢饉の惨状について少年期に見聞きしていたであろうにもかかわらず、著作等の中で一切触れていないことや、米国への移住に際してアイルランド人たちのコミュニティを頼ることができたにもかかわらず、そうしていない点に触れられ、ハーンのアイルランド人としてのアイデンティティの希薄さの理由について、今後究明していく必要性を提起されました。

話題提供後のサロンでのやりとりでは、ハーンの信仰の問題や、ハーン渡米時のギリシャ移民がいかに珍しい存在であったかなど、多岐にわたる話題で盛り上がりました。

(文責・小林准士)